連続ツイートまとめ。安保法案の前提になっている日米地位協定とそれに付随する密約の廃棄をしなければなりません。憲法の上位(!)にあるこれらの廃棄こそが要です。みんな気がついて!
政府関係者は、あえて日米地位協定とその密約についてはふれませんし、日本の有力マスコミもふれません。肝心なことにふれないで説明しようとするから首尾一貫しない「もやもや」っとした説明になってしまうんです。日本の国家権力を規制するのは日本国憲法だけではありません。日米地位協定も強く規制しています。
日米地位協定とその運用に関する密約は、国際的な法的拘束力をもつので、日本の国家権力は通常の憲法解釈から逸脱してでも守らなければなりません。それはアメリカの国家権力サイドも法的に拘束します。だから、あれだけ抗議しつづけても結果として沖縄の米軍基地は動かないのです。県外移設を約束した鳩山首相さえもひきづり下ろされました。ただし運用面での変化はあるようで、アメリカ全体としては緩くなっているはずだとのことです。一部の勢力が強く干渉するらしい。そのひとりにジョセフ・ナイも入っているそうで、私はナイを日本に理解のある国際政治学者と思ってきたので、ちょっとショックでしたね。
というわけで、正しく知識が共有されていれば、争点は「合憲か違憲か」ではなく「日米地位協定の廃棄か否か」になるはずなんですよ。ところが政府もマスコミもそれにふれないし、リベラル大学人たちも正しい論点を提示しようとしない。なぜなんでしょう。この論点の専門家は、もはや憲法学者じゃないですよ。憲法学者に訊けばよいということ自体が疑わしい。
こういう国家の主権に関わる問題はタブーになっていて、それにふれた首相たち(日本の自主独立を期した首相)は、軒並み東京地検特捜部から捜査を受けて失脚することになっています。田中角栄とか竹下登とか小沢一郎とか。マスコミが調査報道したり、アメリカからリークされたりして。こういうのは厳しいみたいです。
つまり、こういうことは議論の土俵の設定が決定的に重要で、それこそ選挙ではその定義闘争がおこなわれます。ほんとうは、そういうものから独立に(自律的に)争点設定をするのがジャーナリズムと知識人の役割なんですけど、それがほとんど機能していない。だから賛否わかれても「違憲か合憲か」として定義される。
いったん議論の土俵が定義されてしまうと、とたんに構図が平板化してわかりやすくなるので、人びとは自分の立ち位置を決めやすくなります。そうなると、自分は多数派だと思った人たちはさかんに意見表明をして集合的沸騰に没入してしまう。沈黙の螺旋が作動するのです。問題なのは、その土俵自体を疑わなくなることです。思考停止はとても危険です。
今のリベラルサヨク大学人の動きは、市民活動としてはありだとしても、とても知識人としての活動だとは思えません。知識人の役割は、こういう場面において議論の土俵そのものが適切かどうかを検証することではないのか。それが党派性を超えた知識人の役割ではないのか。署名活動に熱心な有名教授たち、完全に大政翼賛的になってしまって、全然だめです。思考停止した知識人は、それこそ社会の役には立ちません。