大阪都構想住民投票。私は生まれも育ちも大阪市である。12歳まで住吉区の我孫子に暮らした。数年前に父親がなくなるまでは、我孫子が私の実家であった。実家といっても市営住宅である。我が家は、ずっと市営住宅で、最初は阪和線のすぐ脇の平屋の長屋式の市営住宅だった。電車が通るたびガタガタ揺れて、お客さんは地震かと驚いていたような家である。このころの家賃は3000円である。5000円になったのはずっとあとのはず。父親の仕事は最初はフリーの広告デザイナー職人だったが、私が東京の中学に行ってしまった数年後に突如廃業して50歳にして専業画家になった。これが父親の悲願だったのである。しかし、収入は激減、不安定、以後、長い長い超低空飛行が続くことになる。それが可能だったのは市営住宅の家賃の圧倒的な安さ。これがなければ、私は東京で勉強を続けられなかっただろうし、かといって狭小住宅だったので帰る居場所もなかっただろう。大学に進学できたかどうかもかなりあやしい。当時、市民の入学金3000円だった大阪市立大学しか可能性はなかっただろうが、いかんせん、ここは入試が難しい。結局、私は系列大学に入学金免除の推薦で進学した。授業料は7万5000円。私学にしては破格に安かった。というわけで、我が家は相当に大阪市の寛容な(むしろ鷹揚な)住宅制度によって生き延びたのである。これが東京であれば、父親は「絵だけを描く日々」を断念せざるを得なかっただろう。大阪市の鷹揚な住宅制度は、二重行政の賜である。大阪はアパートなどはすごいお金がかかるが、さまざまな単位の公的住宅があって、貧乏の子だくさん家庭はたいていどこかの公的住宅に入れるのである。これ、今も昔も東京ではありえない。今回の住民投票は、そういう鷹揚な行政のつけを精算するか否かの選択だと思う。そういう意味では関心はあったが、私には安保法制の方が緊急性が高いと判断して、そちらのニュースばかりをひろっていた。結果が出たので、若干の感想を書く。
じつは勝負の結果よりも、両者の拮抗に驚いた。橋下は典型的なメディア政治である。それに対して反対派はリアル政治である。なんせ自民・公明・民主・共産のそろいぶみ。投票結果からいうとリアル政治のわずかな勝利。関係者に喜びの表情はない。リアル政治がいかにメディア政治に押されているかを数字で示した形として注目する。リアル政治は、集会が基本であり、直接的なコミュニケーションを大事にする。ところがメディア政治はプロパガンダで大衆の支持を得ようとする。だからとても多弁である。その言葉はさまざまな人に届く。リアル政治から見ると、もう自分たちの政治スタイルは半分だけしか通用しないということを思い知らされたことになる。他方、メディア政治のスタイルは、昨年末の総選挙と同様、意外に票に直結しない。メディアの強力効果説も、メディアが強力なのではなく、受け手側の大衆が「砂粒のようにバラバラ」の状態だからこそ強力に影響を与えるという理論だった。ポイントは受け手の側の状態にある。プロパガンダは過去のものと思ってきたが、そうではないようだ。プロパガンダで半分は説得できるということを示した。外部からざっくりと見ると、こういう感想を持つ。直接民主主義の実験。地元民はたいへんだったろう。