神道ミッション再考

乃木坂がらみでSPA!を読んでいたら創価大学の記事があった。典型的な紛争後の大学。国学院も宗教系大学として名前が出ていたが、学生数でいうとだいたい同じぐらいである。国学院はかつては教職と神職で名をはせた。高校の教職が低迷しているので、大学はなんとかしたいと人間開発学部を創設して、こないだ卒業生をだしたところ。それに対して創価大は司法試験とか公認会計士とか国家公務員上級(?)とか外交官が私学ベストテン内である。司法試験は国学院の四倍から五倍。教育学部があるので教員(おそらく小学校)もめちゃくちゃ多い。最近グローバルなんとか大学に選ばれたので「なんで創価大が入ってうちは落選なのか」というような他大学からの嫉妬もあるようだが、記事によると交換留学制度のある海外の大学は148だという。うちは3校しかない。この差は何だろう。他の仏教系では、表現学部のある大正大学とか、メジャー化著しい龍谷大学とか、グローバルなんとか学部のある駒澤大学とか、この創価大学のように、最近、どこもけっこうがんばっている。かなり早期から焦って対策を講じてきたということはあるんじゃないかな。つまり劣位な分だけ先手を打ってきたのだ。オシャレなキリスト教系ミッション大学の人気とは比べものにならない線香くさい「イメージ」を払拭するために「リアル」で対抗しようとしてきたのだろう。仏教ミッション系の起死回生策が功を奏している形に見える。では神道系はどうか。創価大学の偏差値は50ぐらいで、国学院の方がかなり高い。狭いけど立地もよい。しかし、公認会計士とか国家公務員上級の合格者は毎年それぞれ1人いるかいないかで、そういう人は学長賞ものになるくらい稀少である。まあ、偏差値評価がすでに崩壊しているのは私学の入試関係者にとっては常識だが、学力試験の受験生は未だにその数字だけで大学を評価するので、影響がないわけではないはず。ということは、大学に入ってから勉強しているということだ。記事には「ぬるい空気」もあると書いてあったが、それはどこも同じ。うちなんかも「ぬるい空気」があるから、リラックスして友だちに会いにキャンパスに来るのだから。私は昨年度から学長指名の全学入学部委員のメンバーになって、はじめて全学のことを考えるようになったので、これらの落差についてずっとガチに考えてきた。去年の5月には1ダース以上の具体的プランを含んだ「国学院物語計画」という提案もしてきたし、全学が抵抗するので、ならば経済学部で先行実践して成果を出せばよいと思って尽力してきた。それでもって、仏教系私学の成果を考量すると、ひとつはメディア戦略の間違いがある。これは何回も書いてきた。もうひとつは、そもそも神道ミッションの定義が間違っているのではないかということ。これを言うと怒る人が続出する可能性が大きいし、これまでも聞き流されてきたのだが、『渋谷らしさの構築』のシブヤイースト論には一応書き込んでおいた。現状の「日本から世界へ」「日本、伝統、神道精神」といったコンセプトには、何の工夫もひねりもない。ここでも思考停止が観察される。これは内部観察である。創価大学に教義・教学系の科目が皆無なのがそうであるように、大学というものは、設立母体とは独自の展開戦略が可能な組織なのである。そもそも宗教系大学の使命は「布教」ではなくそれぞれの設立母体の考える「理想的教育」の実践の場なのである。だから、設立母体のミッションは受け継いでも、それを研究や学問にどう展開していくかの裁量は大学にある。大学はもっと自由に思考の翼を伸ばしていいのだ。では神道ミッションの再定義はいかにあるべきか。じつは私にはすでに答が見えている。それは「反グローバリズムの知的拠点」だ。グローバリゼーションの大潮流が不可避だとしても、ローカリゼーションも進むし、経済的収奪や格差に対する政治的抵抗も激しくなる。内戦状態はもはや常態化している。つまり今の世界は「グローバリゼーション」と「世界内戦状態」のふたつが同時に交錯しながら進行しているのだ。それを「反グローバリズム」の立場から研究・教育するというのが、世界の中の神道ミッションのそれこそ使命ではないだろうか。国学院に深い縁のある柳田國男や折口信夫の描いた「原日本」というユートピア思想はそもそも鎖国時代の産物たる国学が「発明」し新たに「構築」したものである。それは理想状態として世界に宣揚してかまわない。けれども、大学としては、そこに横たわる理念をいったん学術的に抽出して、その上で現代社会への貢献戦略を具体的に(ほんとに具体的に)考えるべきだと思う。国学院には有能な先生がたくさんいて、そういうことはできると思うが、みなさん短期決戦に追われていて、これからの100年を展望する神道ミッションの構想には手が回らないのかもしれない。ただ、ご存じない方に一言加えておくと、ちゃんとした中長期計画はあって、それは着々と進行してはいるのである。だから今ごろ私ごときものが問題提起しても「なしのつぶて」ではあるのだ。だから、私としてはそのラインに参加しつつも、少しずつアイデアを出して、できる範囲で「ずらす」ことに貢献したいと思う。それが「貢献」と評価されることはまずないと思うけれども、もともと褒められたことがない人なので、わりと平気なのだ。

【追記】これについてはフェイスブックで若干の議論をしたばかりです。http://www.facebook.com/nomurakazuo/