抵抗のレイヤーに関する中間考察(安保法制協議をめぐって)

今日は4月21日。ここのところ多くの政治的課題がラッシュアワーのように押し寄せている。安倍政権の強権発動的な権力行使も多々あって、反発も強い。

ただ、私には疑問がある。それは、安倍政権を罵倒するだけで「抵抗」と言えるのかということだ。抵抗であることは認めるにしても、抵抗にはさまざまなレイヤーがあって、有効な抵抗もあれば、まったく無効な抵抗もあり、中には相手を優勢にしてしまう抵抗もある。その点では、抵抗する人たちには、その効果を考量する義務があると思う。

いま私が1番重視しているのは安保法制の問題である。これだけが憲法の存立に関わる大問題だと考えるからだ。あとの問題も重要ではあるが、憲法そのものを問い直すものではない。ここでは、この見地から安保法制に対する抵抗について考えたい。

まず、与党に対する野党の抵抗。野党も多様であり、維新の会は改憲論に立つので、抵抗はしない。かれらの論点は別のところにある。それに対して社民党と共産党と民主党の一部が抵抗派である。総選挙の結果、これらの政党はがんばったものの、当選者総数では負けてしまったことは決定的なことである。私はツイッターでの安倍政権への罵倒を見ていて「ひょっとすると自民党下野か」と思っていたくらいだが、ツイッターたちと選挙民はまったく異なる人たちであることが判明してしまった。これについては、古谷経衡『インターネットは永遠にリアル社会を超えられない』(ディスカヴァー携書137)を参照して欲しい。選挙制度改革が進んでいないということを忘れてはならないが、他方、主権者とされている国民が主権を行使できるほとんど唯一の方法が選挙であることは今さらいうまでもない。ツイッターで安倍政権を罵倒する人たちは、モニターに向き合って罵倒しているのではなく、特定の政党と候補者を積極的に支持するべきなのであって、場合によっては立候補したり、政党を作ったり、抵抗政党に加入して、選挙活動に参加すべきなのである。それでようやく有効な抵抗になり得る。自分は無党派のふりをして、弁明を引き受ける必要もなく批判もされない安全地帯にこもって、結局、ネット上の同調行動として批判している。この抵抗のレイヤーを「犬の遠吠え」と呼ぼう。この抵抗のたちが悪いところは、投票した人たちを馬鹿にすることである。これが民主主義と憲法を台無しにしてしまう行為であることを自覚すべきである。憲法15条には秘密選挙に関連して「選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない」とある。自分が気に入らないからといって、批判対象の政党や政治家に一票を入れた人たちを愚弄するのは、その段階で無効な抵抗である。心情左翼のインテリも同じで、一種の思考停止だと私は見ている。

次に、憲法改正反対の政党を支持する人たちの抵抗を見てみよう。政党支持者でなくても憲法改正に反対の人たちは、各種の世論調査を見ると、じつは多数派である。世論調査には調査主体によってぶれが大きいので注意が必要だが、それにしても現憲法維持の人たちは少なくないはずだ。それらの人たちを代弁する責任が政党と政治家にはある。さらにジャーナリズムや知識人にも責任がある。

ここで抵抗のレイヤーが分岐する。なぜなら安倍政権のプロジェクトは3段ロケットになっているからだ。このロケットのどの段階に批判の焦点を当てるかによって、抵抗の有効性はかなり大きく異なると私は考える。

安保法制を中心に安倍プロジェクトを3段ロケットとして整理すると次のようになる。

(1)第1段ロケット。憲法解釈の変更によって、実を取る形で態勢づくりを始めて、実績という既成事実を積み上げて前例とする。これによって国民がニュースとして具体的に理解をするようになる。もちろん、ひとたび事故が生じて死者がでると反対運動が大きくなる可能性はある。

(2)第2段ロケット。憲法改正を実施する。いきなり九条というのでなくても、とにかく憲法改正の実績をつくる。おそらくこの場合は与党合意のできる範囲に限定されることになるだろうが、国民投票を実施すること自体が自民党にとっては大きな前進である。

(3)第3段ロケット。自主憲法制定。自民党の悲願である。「押しつけ憲法」論に与する多くの人たちの目標もここにある。敵失による総選挙勝利とは言え、自民党にとって、ここで一気に自主憲法制定に持っていきたいというのが本音だろう。安倍首相の目標は、自分の代でなくても、この展望を開くことである。ここで確認しておくと、安倍首相自身は一度首相を病気で失敗し自民党を下野させる一因となっただけに、今回は命がけで取り組んでいることは、その外交的努力と改革断行において明らかである。この覚悟をあなどってはいけない。

さて、2015年4月21日の朝刊の時点で実務的に進んでいるのは第1段ロケットである。これは「高村案」と呼ばれている。2014年7月に集団的自衛権容認の閣議決定がされ、現在、政府・自民党・公明党で協議が進んでいる。大澤真幸・木村草太『憲法の条件』(NHK出版新書)や最近の朝日新聞・毎日新聞の連載記事によると、安倍首相の本気度に驚いた公明党が、「このままでは憲法改正にまで一気に突き進んでしまう」と判断して、同じ志をもつ内閣法制局と共同して原案を作成したとのことである。それが「高村案」として提示されたのである。高村氏は法律家でもあるので、自民党の第2弾ロケットや第3段ロケットに一気に突き進めという人たちを説得して、憲法解釈変更にとどめたのである。だから、今回、石破氏のような論客たちは基本的に発言していない。公的場面で掘り起こす報道陣がいるからしゃべるのであって、本人としてはおとなしくしているつもりなのである。安倍首相自身もじつは持論展開を控えている。これがまさに自民党側の政治的策略であったこともあきらかにされているが、与党離脱という選択肢が公明党には実質的になかったのであろう。自民党から「政教分離問題」をちらつかされたからもあると思うし、公明党には「政権内野党」としての政策提案がたくさんあるからである。そして内閣法制局もじつは「憲法の番人」の組織的伝統があり、憲法改正はありえないという立場である。この点については、元長官の阪田雅裕『「法の番人」内閣法制局の矜持』(大月書店)参照。同じ志というのは、この1点である。公明党の北側氏も弁護士出身なので(というか公明党は弁護士集団の側面が強い)、ほぼ共通の認識でここまできたということだろう。

総選挙後の安保法制協議において、さまざまな新語が飛び交い、とくに自民党から矢継ぎ早に変更要求がだされたのは、第2弾ロケットと第3段ロケットの頭で考えている自民党が半年間じっと口出しを我慢していたためである。かれらは「これじゃあ国が守れない」との政治判断から本音を発言しているので、言うことを聞いていたら「歯止め」にならない。公明党は内閣法制局とともに「歯止め役」に徹することで「抵抗」しているのである。「例外のない事前の国会承認」にこだわるのも、例外を認めると「歯止め」にならないと判断しているからである。いかに自民党と政府の妥協を引き出すかというのが、かれらの抵抗のレイヤーである。今日現在進行中なのは、この抵抗の局面である。

これがわかりにくいのは当然である。私も公明党の動きをかなり批判的に捉えていて、つてをたどって「安保法制議論からの離脱、与党からの離脱」の呼びかけのメールを関係者に送ったほどである。それは人づてに北側氏にも届いているそうだ。おそらくこのような批判は支持者からも猛然と届いているはずである。支持団体の創価学会や創価大学などの大きな関連組織がそれぞれの立場で声明を発表してもよさそうなものなのに、なぜか動く気配がない。公明新聞や聖教新聞には何か書いてあるのかもしれないが、少なくとも一般のニュースには載っていない。これはこれで思考停止状態と言ってよい。この思考停止状態は池田名誉会長の病状に関係があるのではないかと思う。つまり「鶴の一声」がないから動けないのではないか。

この抵抗のレイヤーは、野党や護憲派からは「協力」にしか見えない。かれらにとって妥協すること自体が裏切りと理解される。それが自分自身に反射して、適切な政治的交渉ができないので、政治的には無力となる。国民の少なくとも半分が反対しているのに、総選挙においても、罵倒するばかりで、適切な政治的戦略を打ち出せなかった。サヨクは「左翼小児病」という言葉があるように(レーニンに論文がある)思考停止に陥るクセがある。原則論をかたくなに主張することこそが「抵抗」だと信じているからである。この戦略が政治的妥協を生むことは絶無であろう。批判はいきおい特攻隊的になる。リアル政治のロジックで打破するという態度を失うと「フレーズで勝負」というツイッター的プロパガンダにしかならない。相手は命がけでやっていることを忘れてはならない。そんなものは無効であるばかりか、その罵倒的性格を突いて反撃されるだけであり、品位を問われることになる。こういうのを「敵失」というのである。「オウンゴール」というのである。

今回の安保法制協議については、じつは安倍首相自身が不満でならないはずである。政治信条としては第3段ロケットに点火したくて仕方ないからだ。ここは辛抱して第1段ロケットに点火するのだと自分に言い聞かしているのであろう、たぶん。だからこそ、護憲野党の追及をチャンスと捉えて持論を勝手に主張するのである。答弁は法解釈の根拠として蓄積されるから、安倍首相にとって本音が公的に言える質問は好都合なのである。最近の安倍首相の「放言」は現時点での第1段ロケットに対する首相なりの「抵抗」であることに、なぜ気がつかないのか。この場面では、首相に直接答弁させてはならないのである。そういう発言を引き出すこと自体が「協力」になってしまっている。

その障害となるのが党派性である。ネット上では顕著だが、党派性を付与されることに対して極端な忌避がある。自分はフリーでいたいし、たいしてコミットしていない政党の代弁なんかしたくないからである。親の葬式を無宗教でやる人は少数で、たいていは仏式でやる。これは宗教行動であるが、それにもかかわらず自分は無宗教だと標榜していたりするのと同様である。また、心情左翼なのに共産党支持者とは思われたくないという、党派性を引き受けないという狡猾な言説戦略が日本では有利なのである。今問われているのは、この言説戦略である。これが何ら「抵抗」にならないことは自明である。なぜなら自分を保身しているだけだから。改憲勢力はそこを利用しようとしていると考え直した方がよいのではないか。政治において沈黙はうんこにすぎない。生きている証ではあるが、それで「よい社会」はできない。この点については、ノエル=ノイマンの『沈黙の螺旋』を参照して欲しい。

さて、公明党と内閣法制局が政治的妥協をしてまで守ろうとしているのは何か。それは憲法改正阻止である。憲法改正という事態そのものがきわめてリスキーだと理解しているからである。私も今回の安保法制協議の危うさに危機感を持って、憲法論を1から勉強してきたが、憲法改正のモード自体がとてつもなく危険なのである。

この点については、カール・シュミットの議論が参考になる。FBで専門家の先生にすすめられて『憲法論』(みすず書房)を読んだが、かれは一般権力と憲法制定権力を明確に分けて議論している。一般権力は憲法によって制限されているとともに政治的義務が課せられている。立憲民主主義においては、権力者は憲法によって拘束されていて逸脱は許されないことになっている。しかし、憲法を改正したり、新しい憲法を制定するとなると、憲法制定権力が作動する。この憲法制定権力を握るものが主権に他ならない。では、だれが主権者として憲法制定権力を掌握するのか。国民か? それは何が保証してくれるのか。じつは憲法制定権力を拘束する上位の法はないのだ。だから憲法制定権力はまったくむき出しの権力なのである。だからこそ、憲法制定権力が発動するときが要注意である。ひとたび、これが発動し始めると、少なくとも大混乱が生じる。そこから「革命」と呼んだり「独裁」と呼んだり「ファシズム」と呼んだり、ときには「民主化」と呼んだりする事態に至る。いいも悪いも歴史的評価であって、それはすべて後付けにすぎない。そこが難しいところで、終わりの見えない内戦もありうる話になるのである。アラブ諸国やアフリカなどで次々と続いている内戦は、憲法制定権力をめぐる闘争プロセスと見ることができる。冷戦終結後、「これで戦争の歴史が終わる」との予想を裏切り、もはや「世界内戦時代」と言える状況が生じている。ハンチントンによる「文明の衝突」といった単純な現象でもなくなっている。この「世界内戦時代」に日本の平和を維持するのは容易なことではないし、鎖国して一国平和状態を維持するというのも、グローバリゼーションと相互依存の時代ではまったく不可能である。むしろ「平和を輸出する」くらいでないと、日本の平和は維持できないだろう。

憲法制定権力については、大御所の芦辺信喜による『憲法制定権力』(東京大学出版会)があり、この問題圏を「例外状態」として論じたアガンベン『例外状態』(未来社)、また別の視角から論じていると思われる橋爪大三郎『国家緊急権』(NHKブックス)が参考になるが、ここでは、これらについて論じる余裕がない。

要するに憲法改正は「例外状態」を呼び込むのである。日本国憲法が可能だったのは占領下にあったからにほかならず、主権が日本にはなかったから可能になったのであって、大日本帝国憲法にしたがって改正できたので手続き的正統性をもつのである。では、まったくの押しつけかというと、アメリカはアメリカで大きな妥協をしているのであり、それが第一章の象徴天皇制であることは周知の通りである。ただし、この文脈があるので、日本国憲法よりも日米安保条約の方が上位にあることになっている。このあたりのことをわかりやすく説明した本として、矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)があるので参照してほしい。

国連中心主義というのも、それほど自明なものではない。国連のPKO活動は基本的にその国の人びとの意向を尊重する形でなされてきたので、私たちもそういうことで納得しているが、じっさいには大きく転換している。そのきっかけとなったのは1994年のルワンダ大虐殺である。これは大統領の乗った飛行機が墜落したのをきっかけに、およそ100日の間に80万人から100万人の人びとが虐殺された事件である。犠牲者の数字の誤差自体が大きいのに驚くが、ほんとうに何人殺されたのかは正確にはわかっていない。フィリップ・ゴーレイヴィッチの『ジェノサイドの丘』(WAVE出版)を読んでみたが、目撃者がいないほど徹底的に殺されたのである。武器はなく、すべて農具によって虐殺されたというのが驚異である。このときの国連PKO部隊のリーダーの手記が翻訳されているが、なすすべもなかったようだ。むしろ国連は部隊を次々に撤退させてしまう。このルワンダ大虐殺をきっかけに国連の考え方が大きく転換して、外からの介入を試みるようになったという。このあたりについては、現場をよく知る伊勢崎賢治氏の本で知った。『日本人は人を殺しに行くのか』(朝日新書)と『本当の戦争の話をしよう』(朝日出版社)は必読である。

にわか勉強であるが、安保法制についてどう考えていいのか、よくわからなかったので、3月の入試が終わったところからスタートダッシュして勉強して、ようやくここまでたどり着いた。法律も憲法論もど素人であるが、私は自分で考えないと納得できない性格なので、ずいぶん基本書から勉強を始めたのである。知識と見識のある専門家の先生たちには、もっと議論をしていただきたいし、政治家やネット市民の皆さんにも、きめこまかい有効な抵抗戦略をとっていただきたい。

最後に、私が懸念している「例外状態」に関連して注目している論者に言及しておきたい。それはキャス・サンスティーンである。『最悪のシナリオ』(みすず書房)『熟議が壊れるとき』(勁草書房)『恐怖の法則』(勁草書房)という一連の著作に、世界内戦時代の日本と世界について考えるための手がかりがあると踏んでいる。まだしっかり読んでいないので、パラ読みの予想になるが、ベックのいう『リスク社会』が現出している現在、「危ない危ない」と煽ることだけで抵抗になるのだろうかという疑念を私は持っている。危機意識は必要だが、それによって思考停止になってしまうことや、その結果として抵抗の戦略を間違えてしまうことが心配である。関東大震災の教訓は何度でも確認されてよい。清水幾太郎『流言蜚語』(ちくま学芸文庫)は基本書。ジェノサイドは遠い国の話ではない。