晦日大晦日はしっかりテレビを見た。先月からツイッターも(世間とは5周遅れぐらい遅れて)フォロー先を増やして、しっかり読み書きしてみた。それらを見て思ったのは、上質のものを大量に作り上げる人たちは、たいてい即興力にすぐれているということだ。音楽も言葉も即興的に紡ぐことができる人たちは、一発芸にならずにどんどん変奏していける。変奏に変奏を重ねて、いつの間にかまったく別の作品をつくりだすのである。
私は、世の中のすべてのことを「作品」として鑑賞する癖がある。観客化していると言われれば、その通り。作品として鑑賞するとなると、クラシックであろうとJポップであろうとノイズであろうと、落書きであろうと大河小説であろうと、プロ職人によるものであろうと学生のレポートであろうと、シンポジウムの議論であろうと学生との雑談であろうと、けっこう楽しめるのである。こういう態度は今や珍しくないと思うが、歳を取っている分、癖(へき)が高じているとも言える。
その視点で見渡すと、即興の効く人は、変奏もうまく、それゆえに多作になれる。あれこれ構成を考えて作品づくりをする人は、作品が完成する前に自分に飽きてしまう。創作行為が義務行為に変質してしまうのだ。小説も音楽も対談も論文も、案外、そういうところがある。そういう人は必然的に寡作になる。
で、別に何かを主張したいわけではない。自分のこととして考えていたのだ。私は構成とかアウトラインとかスケールで作品性というものを考えてきたところがある。けれども、そういうものではないところにこそ作品性というものは宿っていて、それが即興と変奏ではないかと、しみじみ思うのである。
昔(ああ、私は昔話ばかりだ!)、村上龍が長編小説を書くさいに思いついたのは「短編を連作すれば長編になるんじゃないか」ということだった。長編小説は書けないと自他共に思っていたようだが、この転回によって、かれは次々に長編小説の名作を書くことになる。
即興は才能がもろに出る。音楽であれ言葉であれパフォーマンスであれ。それに対して変奏はかなり技術的な能力である。どっちが先なのかはジャンルや人によると思うが、その両方がそろうと何か創造的なもの、つまり作品性の高いものになる。天才と呼ばれる人たちには当たり前のことかもしれないが、たいていそうなのである。
では、どうすればよいのか。変奏の能力は勉強や練習であるレベルまでは磨くことができる。では、即興の能力はどうだろう。私には、これがわからない。天賦の才能? 練習の成果? 豊富な経験? 教育の力? 偶然の産物?
ここで、ひとつ思いつくのは「応答の意欲」である。相手・仲間・オーディエンス・読者・場所・状況などさまざまな反応に対して応答する意欲を持ち続けること。「応答」であり「意欲」なのだ。とりあえず私が観察できる現代の天才たちに共通しているのは「応答の意欲」である。言い方を換えると「関係の依り代」に徹することができる能力と意欲。
うむ、なんとなく見えてきたような気がするが、今夜はここまでかな。続きはまた書くことにしよう。